(PBフリー・鉛含有)電子基板表面実装、自動半田漕、手はんだ付け、 ハーネス組付け加工、多種部品BOX等組付け、板金プレス、樹脂成型、表面処理、塗装、金属・樹脂の切削加工

歴史資料館

- HISTORICAL MUSEUM -

歴史と由来

昭和初期繁栄した足袋製造

大野村には江戸時代に、たび角(現在は旅行社)・たび弥喜(平成初期まで仕立屋)・など足袋の製造のお店が多くありました。
昭和初期に大野鍛冶(黒鍬一族)の農鍛冶を廃業して足袋の製造を始めました。

 

登録商標は三階松に矢羽のマーク(松に矢)きぬ掛足袋(最上級品)、まつや足袋(上級品)、雪見足袋(普通品)、月見足袋(特別奉仕品)、おつとめ足袋(奉仕品)

創業者 相羽弥左エ門(本名 覺)氏は代々農鍛冶業の家に明治21年(1888)に生まれる。父親藤三郎は大興寺土井伝右衛門家(佐治家の家老)より養子。農鍛冶の仕事場は岐阜県恵那郡曾木村(現在エイデンの創業者岡島省三氏宅)

 

 昭和2年~5年頃に名古屋で3年間ほど製造見習して、かね弥足袋製造所として三光院の西付近で、足袋製造技術者 河村氏、裁断士北川氏と共に創業を開始。
 昭和初期にマツヤ産業株式会社創立、三和村金山社串53(現在の場所)で足袋製造開始。昭和6年~7年にお客様接待用として36畳の大広間をもつ別館を建設し、又た昭和8年~9年頃本宅を建設しました。昭和15年10月21日に火災工場及び事務所187坪焼失する。昭和16年11月事務所二階建31坪、工場182坪を新築して本格的に事業を再開する。現在建っている建物です。

 

当時の会社役員は
(社長) 相羽 弥左エ門 (専務) 相羽 茂雄 (常務) 相羽 勝
(取締役) 宮地 清三 (監査役) 高橋 三四郎
(監査役) 橋爪 清吉 (顧問) 志賀 為三郎のスタッフでした。
従業員数は男子30名位、女子120名位で、合計150名ほどでした。

 

 昭和21年~昭和556年間名古屋市中区本重町14-6(現在の錦2丁目14-6)に名古屋営業所を設け、販売地域は、愛知県はもとより、長野県、静岡県、岐阜県、三重県、など中部5県下に及び遠くは、北海道地区にも3店の代理店を持ち代理店の総数2800店ほどでした。

 

 昭和20年代には度々の停電に備えて工場の設備も自家発電設備を設けてのフル製造でした。また繁栄時期には、新舞子の舞子館を1週間貸切りでの接客接待会や年間7、8回の接待温泉旅行を催し、下呂温泉では小川屋、信州上山田温泉では信州観光ホテル、渋温泉では金具屋など特別契約の旅館がありました。
 その繁栄は昭和30年頃まで続きましたが、世の中の履物の変化に押されて足袋を履く人が急激に少なくなり、昭和56年繊維部門を廃業。現在は、半導体基盤など色々な電子工学部門で成果を発揮しています。

 

足袋の豆知識

 足袋は古くは「単皮」と書く、足に履く布製の袋状の衣料です。鼻緒をすげた履物をはけるように、親指とほかの四本の指を入れる二つの部分に別れており、かがとの上をこはぜ(甲馳とも書く)で留めます。古くは革製で組紐で結びました。現代は和服の時に、防寒用、礼装用として用いられます。
足袋の種類には、五枚こはぜ、四枚こはぜ、三枚こはぜ があります。

 

表生地

男子用 朱子、白キャラコ、コール天、綾紺、黒別珍
女子用 絹羽重、プロード、白キャラコ、色別珍

裏生地
ネル地(冬用)、木綿地(夏用)
底生地
杉織雲才、綾織雲才、石底
サイズ

五文半(15.5)・六文(16.0)・六文半(16.5)・七文(17.0)・七文半(18.0)・八文(19.0)・八文半(20.0)・九文(21.0)・九文三(22.0)・九文半(22.5)・九文七(23.0)・十文(24.0)・十文三(24.5)・十文半(25.0)・十文七(25.5)・十一文(26.0)・十一文半(26.5)・特別別誂え

 

●製造工程
表2裏2底と5種類の金型(河内長野地方で製造)でブレス裁断(特殊ミシンでの作業)
掛糸通・こはぜ付け・皮縫い・丸留め・先付け・後廻し・アジロ掛け
仕上げ(平とじ、巻とじ)(種類によってはアイロン仕上げ)

 

●足袋の代表メーカー
福助(大阪)、アサヒ(久留米)、菊鶴(岐阜)、アルプス(松本)、杵屋(東京)、百足屋(高知)、まつや(名古屋・常滑)、 東海(名古屋)、松はま(名古屋)、笹屋(名古屋)、その他、御殿足袋、布袋足袋、万屋足袋、など埼玉県行田市には 10数社の足袋製造会社があります。

参考:大辞林

小倉区の実ミニ歴史

「身に入るや潮風の朝涼み」
これは永録十年(1567)に紹巴が小倉道場(蓮台寺)で詠んだ句である。
 江戸時代の終りごろには中央に蓮台寺、蓮生寺、三光院、北方には三狐神社(社串とも書く)今の小倉天神社があり現在とほぼ同じ光景でした。

 

 また、元禄十年(1697)の「酒かぶ帳」には長五郎という酒造家が、亨和二年(1802)の「鍛冶職人別名前覚」には市左衛門をはじめ23名の鍛冶職人が記されています。
 昭和に入っても三河方面へ農鍛冶25戸、尾張方面17戸、岐阜方面7戸とユザキ(湯先)といって農具の刃先の調整・修理に出稼ぎに出かけてます。

 

 江戸時代の初期頃120戸、明治の初期には160戸、昭和13年には165戸、昭和45年には311戸と増加しています。

 

姓氏考:竹内、畑中、江本、相羽、藤田の順でその他姓氏70数種類ある。

 

参考:大野町史 常滑市史 常滑の城 大野谷風土記

蓮台寺―衣掛の松

 ここには、衣掛の松がある。
古くよりの言い伝えとして、門内西側に古雅なる碑石があり、
「きぬ掛松と刻めり。傳へいふ。往昔後花園天皇祈願の為め勅使を此寺に下し玉へる時、其使人の衣を掛られし松なりと」
其のころの松は周り二丈許りもありし巨松でした。

 

 また、一伝説として、この松は、昔、宮山の佐治家と織田信長が戦いをしたとき、青海山の城が今にも落ちそうなとき、佐治家の奥方が守り本尊でもあった阿弥陀如来の掛軸を持って小倉へ逃げれ、(寛文村村覚書では)城から三光院までの地下の抜け道を通って蓮台寺へつかれた。
追手が追し寄せる様子なので、着ていた上衣を境内の松の小枝にかけて井戸に投身の如く死を装い、敵を欺いて、小倉から大草・ 南粕谷から大興寺(土井伝右衛門家)へ落ちのびたという。
それからこの松を衣掛の松という。
小倉蓮台寺の衣掛松は、国に二本の松ぢゃげなといわれ、今の松は二代目衣掛松といわれています。

 

 また、この土井伝右衛門家は大興寺の中でも最も高い通称城峯という所に屋敷構え。屋敷内西の高地に小さな祠がありそれは土井家の守り神様でもあります。また土井家は大野虫供養の宿元でもあり現当主で40代余続いている家柄である。(現・土井伝治郎様)

 

参考:大野町史 常滑市史 常滑の城 大野谷

まつや別邸

 

まつや別邸は、まつや足袋の創業者 相羽弥左エ門が、昭和初期に建築した和洋折衷の建物です。

 


 昭和初期に会議や宴会などの為に建てた木造二階建てで、外観から見ると洋館ですが、中へ入ると畳の大広間と洋風の応接室があります。
 現在は隠れ家的癒し空間カフェとして、ゆっくりとおくつろぎいただけます。

 

 

住所:愛知県常滑市小倉町5-84
駐車場:マツヤ産業(株)をご利用ください

マツヤ産業株式会社

〒479-0862 愛知県常滑市小倉町6丁目74
TEL0569-42-0062 FAX0569-42-0071